今宵逢う人みな美しき

綺麗なモブになりたいジャニオタの独り言

傲慢な自己嫌悪

 

Twitterをやっていると、たまに匿名のメッセージツールを使ってこんなものが送られてくる。

『自己嫌悪で死にそうです』『救ってください』『助けてください』。

ああ、多分この子なりに限界を感じて送ってきたのだろうな。わたしはそのメッセージを読んだ時、まず一番にそう思う。でも何があったかについては大体書かれていなくて、わたしにはその自己嫌悪の出所が全く分からない。見当もつかないのだ。

さぞ辛いことであろう。そんなに自己嫌悪に苛まれて死にそう、だなんて。死にたいと書いていないだけマシだ、とふと考えてしまう時すらある。

 

今のところいくつか寄せられた中に見受けられた理由は、"自分が理想とするところの見た目と現実のギャップから生まれる自己嫌悪"というもの。男女共に一度は考えたことがあるとは思うが、そういうことを指摘することに無頓着なこの国で女に生まれた以上、おそらく誰もが通る道ではないかとわたしは思う。

 

 

見た目という最も目に見えやすいものは比較しやすく、日常生活を送る中で他人に比較されることもあれば、つい自分で比較してしまうこともある。綺麗、可愛い、普通、不細工、好み、苦手、嫌い…色々な感想があるだろう。それに関して特に言うことはない。人の顔の数だけ感想があって当然だから。

「人は見た目じゃない」とは言っても、綺麗な子や可愛い子が得をするのは仕方ない。悲しいかな世の中はそうやって出来ている。みんな見目麗しいものは好きだし、そこにどんな過程や努力があろうとも、やはり第一印象で目に見えるものに価値がつくのは当たり前のことだ。

だって初めて会った時に他人を何で評価するって、まずは見た目だ。雰囲気、清潔感、身のこなし、顔立ち、服装、持ち物。そういった外見的要素で人間は他人を判断する。だから「身なりをちゃんとしろ」と言われるのだ。

 

こういうことを話すと、必ず嫌な顔をされる。結局見た目かよ。よくもまぁそんな乱暴な物事の捉え方でへそを曲げることが出来るものだと、逆にわたしは感心してしまう。どうして人がまず見た目で他人を判断するかについて浅はかな考えで全て分かった振りをしたり、またその逆で、何も分からない振りを続けたりするつもりなんだろう。

どれだけ中身が優れていても、切りっぱなしの髪を伸ばしたままにしているとか、手入れのされていないパッサパサの毛先のままとか、いつ買ったのか分からないくたびれた服を着ているとか、踵のゴム底が無くなり金属が丸出しで傷だらけ・砂埃まみれのヒールを何とも思わない顔で履いているとか、口元に塗ったリップラインが適当だとか、そういった見た目の人間を初対面で「素敵な人だ」と、「この人を頼ろう」だとか、人は思うだろうか。まぁ少なくともわたしは思わない。まず最初は好印象ではないことは、間違いない。

 

分かりやすく外見を綺麗にすることは人生において案外大事だ。しかしそれは、元々の顔立ちの美醜のみを判断基準にしている訳ではない。身なりを綺麗にしようという気概、心配り。そういったものが表出した結果、人は他人を「まず見た目で判断する」というわけだ。

無論、それが見抜けずにただ顔の美醜だけで判断を下す人間が生息していることも忘れてはならないが、そういった人間はわたしの世界の中から強制的且つ自動的に排除されるので、今回の議論の土俵には上げて差し上げないこととする。

 

それならば、とりあえず綺麗な服を着て、綺麗な髪型をして、綺麗な持ち物を持ち合わせていたら、わたしはそれを見て「素敵な人だ」「まともな人だ」と判断を下すのだろうか?

多分「それなりに社会で生きていける程度にはまともな人なのだろう」とわたしは考えるし、そこまでの悪い印象は抱かないと思う。だけどそれが「素敵な人だ」というところまで直結するか否かという話になってくると、これがまた違ってくるのだ。

ではその時わたしはどこを見て、相手のどんな部分を自分の物差しで測って、「素敵な人だ」と判断するのか、という話になる。

 

わたしは、内面の美しさは必ず顔に出ると思っている。日々その人がどうやって生きているのか、何を考えているのか、その人の美学とは、美徳とは。来る日も来る日もそういった物事を考え、向き合っている人というのは、自ずとその空気が滲み出てしまっていることが往々にしてある。そしてそういう人は、もれなく美しい外見を持ち合わせている。しつこいようだが、元々の顔立ちに左右されるものではない美しさの話だ。

一朝一夕で成し遂げられるようなことではない。きっと何年も何十年もかけて手にすることが出来た(恐らく本人はもう手にしているなどと思ったりはしていないだろうが)その魅力は、とても美しい。

 

内面の磨き方は人の数だけあるが、結局は色々なものを見たり学んだり感じたりしている間にどれだけ自分という存在と対峙出来るか否かにかかっているのかな、とわたしは思っている。

文学、絵画、音楽、哲学…例に挙げたこの辺りは主に自分自身が通ってきた道だが、様々な芸術や学問の根源にはいつも人間がいて、沢山の本物や本質に触れれば触れる程自己との対峙は避けては通れない。まずその本物を自分が認められるかどうかから始まり、ではどこをどうして自分は美しいと、好きだと思ったのか。それを繰り返し感じ考え、経験として蓄積していくことによって人の中に存在する美学は磨かれていく。
ただの知識や雑学として積み重ねられないそれらは、確実に人間の内面を美しくするし、本人が思っている以上に見た目に反映されている。

だからわたしは「内面の美しさは必ず顔に出る」と思っているのだ。

 

さて、果たして何の努力も無しに人間はここまでのことが出来るだろうか?
もしかしたら最初はただ好きなだけで芸術や学問に触れていただけの人もいたかもしれない。というか、ほとんどがそうだと思う。だけどそれらと真摯に向き合い続けた人が何の努力もしなかったかと聞かれたら、わたしは「違うのではないか」と答える。
好きだからこそ理解しようとしたり、自分の中に上手に落とし込もうとしたり、そういった努力はしたのではないかと思うからだ。それが意識的か無意識的かはともかくとして。

今回例に挙げた内面を磨くツールは芸術や学問としたが、無論それだけではない。先述にもあるように、結局どんな道や道具を使ってきたとしても、日々その人がどうやって生きているのか、何を考えているのか、その人の美学や美徳といったものの正体が何であるかについてどれだけの時間と経験を積んだか、という点が最も重要だとわたしは思っている。

 

こういったことを日々自然に成し遂げている人は、極めて自然に見た目を小綺麗に整えているケースがほとんどだ。大体の美しい人はそれを疎かにしたりはしない。見た目だけ綺麗にして何とかしようとする魂胆はなく、内面を磨く内に外見もきちんと磨いている。分かりやすく言うと、内面を磨こうとする「心意気」と、外見を磨く「心意気」が連動している、ということである。

わたしはそういう人がとても好きだ。男でも女でも、そういう人はぱっと見た瞬間に美しい人間であることが分かる。それを伝えると本人は大抵謙遜してくれるが、正直謙遜の必要などないとわたしはいつも思う。ありがとうと、嬉しいと、出来れば遜ることなく受け止めてほしいなと思っている。

 

つまりわたしの自論としては、「内面の美は本人の努力の上に成り立ち、それは必ず顔に出る」という結論に辿り着く。だからわたしははっきりと「人は見た目だ」と言うし、結果論として中身がまぁまぁそれなりのものになっていても、何も考えず自己も持たず外見だけ磨いていても、わたしはそれを「素敵な人」「美しい人」として認めることは出来ない。

ま、最初から何の説明も無しに「人は見た目だ」と言い切ると、あらぬ誤解や招かざる語弊まみれになるのでそう言い切ったりはしないけれども。

 

 

そしてこれが冒頭の「見た目に関する自己嫌悪」にどう繋がるかというと、

 

①内面の美は本人の努力の上に成り立ち、それは必ず顔に出る

②内面を磨こうとする「心意気」と、外見を磨く「心意気」は連動している

 

という二つの自論がわたしの思う自己嫌悪との戦い方だと思っている、という話である。

 

少なくとも上記で述べた自論を丁寧にこなしているわたしの友人たちは美しい人ばかりだ。それぞれの顔のパーツを現代社会の美の評価基準に当てはめて考えた時決して万人が称賛せずとも、とても美しい顔をしている。

逆にどちらも適当にこなしている人や、中身が腐っているような人間は、どれだけ恵まれた容姿をしていてもその中身の空虚さが表に出てしまっていて、見ていて虚しいものである。わたしはSNS上の写真からでも時々それを感じてしまい、虚しい気持ちになる時すらあるのだ。

 

手厳しいことを言うようだが、冒頭でわたしにメッセージを送ってきた子は、わたしがここまで述べてきたような努力をしたのだろうか。もしかして、何の努力もしていないのに、自分が生まれ持っているものと他人とを見比べて"劣っている"と感じて自己嫌悪に塗れていたりするのではないだろうか。

だとしたらそれはとても傲慢だ。

 

他人の努力の量など他人が推しはかろうとするだけ無駄だし愚行だとは思う。数値化もされず、目に見えないものな上に、他人の中にあるものを自分の物差しではかろうとしているのだ。そこに愚か以外の言葉は見当たらない。それでもそうすることでしか他人のことを見極められないのだとしたら、そうする他ない。

ましてやわたしの物差しを信用して助けを求めてきているのだとしたら、わたしは自分の物差しを他人にあてて物事を考えるしかなく、その上で相手を「傲慢だ」と思ってしまう。

だってわたしが思うような努力を積み重ねてきたような子だとしたら、自分の自己嫌悪を他人からの慰みの言葉で紛らわせたり解決しようとなんてしないはずだから、わたしはそういう言葉をもらう度に「傲慢だ」と思うのだ。

 

自己嫌悪の解決なんて、自分でやる他ない。だって自分の中で自分が生み出してしまった自分に対する嫌悪の感情なのだから、そこで不特定多数の他人からどんな風に「あなたは素敵よ」「綺麗よ」「美しいから大丈夫」と声をかけてもらったとしても、そんなもの一瞬の手慰みにすぎない。その瞬間だけ安心して、使い捨ての言葉になって、その内良くてごみ箱、悪ければ道端に捨てられる。永遠に誰かの心に滞在して安寧の光として煌々と輝くことなどないことを、わたしは知っている。

自己解決するしかない自己嫌悪を他人に解決してもらおうとする。それを他人に要求すること自体が「傲慢だ」という話なのだ。

 

他人からの肯定の言葉が自分の自信や自己肯定に繋がることがあることも分かっている。でも他人の肯定の言葉が自己肯定の糧になって永遠の光になる為には、自分自身がその問題点についてへそを曲げずに真摯に向き合っているという条件が必須項目であると思う。

しかしどうであろう。自分の外見について自己嫌悪している子たちから聞こえてくる言葉の多くは「わたしなんか」「どうせ何やったってブスだし」「美人に勝てるわけがない」「努力しても無駄」というものばかり。これのどこにへそを曲げていない要素を見いだせというのか。無理がある。「どうせ」「なんか」「できるわけない」「無駄」を使っている時点で、わたしがどんな励ましや慰みの言葉をかけても所詮レストランで出てくるビニールに包まれたお手拭きにしかならない。ずっと大切に使ってもらえるハンカチなんかになれはしないのだ。

だとしたら、はっきり言ってかける言葉などない。わたしは、わたしの言葉を使い捨てのお手拭きにされるのは御免だ。だってどれだけこちらが真摯に紡いでも一瞬の手慰みにしかならないのなら、そこに大した価値は存在しない。いいや、わたしがそこにどれだけの価値を持たせたとて、その価値は正しく評価されない。ならばわたしが言う事は何も無い。

 

冷たくてひどい人間だと思われるだろう。傷ついている人間の傷を手当てせずに放置するように見えてもまぁ仕方ない。

けれど、わたしはそこで誰かの傷を洗ってあげて、清潔なタオルで拭いてあげて、消毒してあげて、絆創膏を貼ってあげて、毎日毎日取り換えてあげるほど他人に甘くはない。自分の傷くらい自分で責任もって面倒を見ろ。

何よりまずはその手当ての仕方を能動的に学べ、というのがわたしの意見だ。

 

少し乱暴な物言いになったが、これがわたしの率直な意見である。

内面に関しても見た目に関しても、きちんと丁寧に努力をしてきたのか。誰かに慰めてもらうことだけで、自分の見た目を始めとする自己嫌悪から逃れようとするのはいかがなものか。それは根本的な解決になるのか。そしてそこまで考えてからわたしを頼ってきたのか。

一人一人聞くことも出来ないし、そこまでされる義理もないだろうからいちいち問い詰めたりはしないけど。もしそうではないのだとしたら、自己嫌悪に陥ること自体も傲慢だと言えるだろう。もっと真面目に、丁寧に、真摯に自分と向き合ってから自己嫌悪を生み出すべきだ。

そうして初めて、思い悩んだ時にかけてもらう他人からの肯定の言葉に救われるのではないのか。

 

今の時代、いくらでも見た目を変えることなんて出来る。出来るけれど、根本的にその自己嫌悪を解決するためには、その過程で自分自身と向き合うことから逃れることは出来ない。どれだけ誰に何を説かれようとも、わたしはこの自論を崩す気はない。

外見を磨くことと内面を磨くことは繋がっている。永遠にこの関係性を切り離すことは出来ないだろう。だからこそ、人は内面を磨くことから手を抜いてはいけないのだ。

 

 

自己嫌悪は生きている以上誰しも経験するものだ。大切なのは、それから逃げることなく向き合うことの出来る自分をきちんと確立すること。でなければ永久に自己嫌悪のループから脱出することは出来ない。

だからわたしは、わたしの元に寄せられたSOSに応えることは出来ない。綺麗にラッピングされた使い捨ての慰めを贈ることもしない。冷たいと、ひどいと言われてもだ。

自分と向き合って自分を認めるなんて、明日すぐに実現してゴールに辿り着く事ではないからこそ、明日から、寧ろ今からすぐに向き合ってほしい。わたしが言える励ましの言葉なんて精々こんなものだ。

こんなものしか送ることは出来ないけど、それでもそれが誰かの心に響いてくれることを、わたしは信じている。

 

 

だからどうか頽れることなく戦ってください。美しく生きてください。

今自己嫌悪に苛まれる子に、どうかどうかこの言葉が小さな安寧の光となって届きますように。

 

 

かすみ(@mist_storm_1723)